川島信夫の職歴詳細

データサイエンティストとしての職務経歴

卓越した能力をいかんなく発揮し、常に創造した仮説を検証せんがため、時としてシステムの限界を超え、さらにはステークホルダーたちの理解の範囲を超えてしまったが故、孤高のプレーヤーとなった。

1986年統一ゼミナール国語科主任講師として受験国語設問のクラスター分類に日本で初めて成功。教材として世に出すも、多くの保守的な講師陣に理解されず興味を失う。

1988年大学の計算機ゼミ卒論のため「メディア嗜好とコミュニケーション論」分析のため、都内小学生・中学生・高校生・大学生合計約300人に対し、600項目のメディア接触状況と20個の属性を個人で各校の教員に調査依頼し設問設定、アンケート配布、全数獲得、全データをメインフレームに入力、自作のFORTRAN総当たり重回帰分析プログラムにより、20項目の仮説実証データを得たほか、数百の仮説を導きだしたことによりデータサイエンティストの先駆けとなった。

1995年CD-ROMチェンジャー普及のため、データベースソフトをバンドル販売することとし、当時としては画期的な6ギガ超えのデータファイルを作成。バッジ処理が不可能であったため、1万枚の写真を手打ちでデータベース化することで、その時点でのデータベース処理能力の限界を超えてしまう。

2002年、約2年間5人の担当者が投げ出したナレッジマネジメント・CRMシステム構築を引き受ける。B2B営業マン50人超、関係者300人が協業するための日本で最も成功したシステムとなる。一日200レコード、3000書き込みが5年間続き、数千社の数十万物件、数万人の折衝経緯がすべて記録・保存され、その商談すべてに目を通しテキストマイニングする傍ら、経営企画としてのレポートを挙げた。この記録は事業部解散後も10年以上にわたり顧客サポートデータとして活用された。個人情報保護法適用前であったため可能となったシステムであった。

2006年新販売会社の経営企画部に異動。副業として業務用営業部のWebページ刷新にあたり、適切なSEOを施し静的デザインと導線にこだわり、ターゲット設定を変更し、アクセス数を1000倍、入電数を100倍にし、大成功を収める。アクセス解析会社のブルーメトリックス社のコンサルタントいわく、「見たこともない大躍進」と評価される。

全日本の家電店全店舗のWeb導入状況を網羅し、いかに「紺屋の白袴」状態であるかを集計、分析、報告。

Mixi社がバグにより実名が露出した時期に、取引先70社の社員数百人を突き止め、日記をテキストマイニングし、業績予想をリスト化し報告。「ガバナンス的に問題あり」としたいくつかの企業はその後消滅する。「社員の日記を見ればその企業の業績予想が可能」であることを証明。

2008年事実上経営破たんしていたB2C ECサイトWebマスター兼マネジャー就任。人数を3分の1以下、専業は川島一人、合計3.1人でアクセス数を20倍、売上を3倍、利益率を1.5倍(定価販売)し、年商1億円、月商1千万円以上をキープ、単独黒字とした。2年間ですべてのコンテンツは作り直し、日産3ページ。のべ500商品を販売。アクセス状況や、ネット上のニュースなどを見ながら、指値をしたり、導線を作り直すことで「定価なのに安い」錯覚を作る。ことに月2回川島が一人4役で書くメルマガでは1万人超のメルマガ会員の最大300人が訪問(3%)し、最大60人が購買(0.6%)。売れ筋がない中で驚異的な力を発揮。全国12営業所の1営業所に迫る利益をたたき出した。

マーケティングクリエイティブディレクターとしての職務経歴

要するに何をやらせても通常の予測を超越し成果を出し、常に世界をリードするクリエイティブな存在であり続け、その時々で必要な知識は最先端の業界人との交流で身に着けました。

1990年入社初年度ながらパイオニアのレーザーディスクを使用した世界初のカラーフル動画によるマルチメディアシステムを提唱。エバンジュリストとして日本中を駆け回る一方、電総研及び大林組から2タイトル3000万円のカスタムメイドを受託制作。プロデュースする。

1991年マルチメディアディレクターとして、朝日新聞の服部桂氏を座長とするシンポジウムに登壇。文才を活かし業務用映像紙誌にも連載を持つ。

1992年世界初の書き換え型映像専用ディスク録画再生機を発売。発売前より唯一のマーケティングディレクターとして、世界初のノンリニア放送業務用機器としての市場開拓を手がける一方様々なアプリケーション開発を行う。数十のソリューションを発明するほか現代まで使用される用語も発明。スマホにつながるまだ見ぬ未来をB2Bで世界に問うた。InterBEE(国際放送機器展)においては、ブースレイアウトから寸劇の脚本、役者のオーディション、コンピュータプログラム、映像制作まで微細なところまで唯一人としてハンドリング。3日間の公式発表来場者人数の3割の名刺を集め、寸劇の始まる10分前にはブース前に黒山の人だかり。12分の寸劇終演後には観客から拍手が沸き起こる空前絶後の成功を収める。

DTP、DTVシステムも黎明期から取り入れ、異業種交流も盛んに実施。SONY編集塾修了。

1995年世界初の100枚、300枚、500枚CD-Rチェンジャーのエバンジュリストとして医療分野、印刷業界、学術業界、SCM等の業界知識を吸い上げる。

1996年世界初DVD-RおよびDVDオーサリングシステムを世に問う。マーケティングディレクターとして世界で初めてとなるDVDワークショップを開催。この時も、比較映像制作からプレゼンテーターまでを務める。

1998年から2000年にかけて、業界の先駆けとなるマルチメディアソフトの制作を行うも、多忙すぎること、技術進化が速すぎることから部外、社外にアピールできず10余りのタイトルを作り過ごす。

2002年経営統括部に復帰。ナレッジマネジメントシステムをNTT東日本のスタッフを使って全く新しく構築。半年間のLotusNotesでの開発(開発中に言語をマスター)し予行練習なしにカットオーバーするも重過失なしにスタート。成果を日本ガイドシェアでみずほ情報システム等の人々のチーム発表し、発表者として最優秀プレゼンテーション賞をIBM社から認められ二年連続で受賞。

人物と特筆すべき性格

高潔な人格者でもあり、博識でもあることにより、初対面の知識人から非正規社員に至るまで厚い信頼を預託され、強いカリスマ性とリーダーシップにより組織を取りまとめ成功へと導く。生まれながらの指導者にして創造性あふれる頭脳は手ごわいハードルや目的を粘り強く達成する。私利私欲に興味がなく、常にステークホルダー、特にお客様に心配りを忘れず、総合職・管理職・実務者としてあらゆるスキルを習得した。1万人に2人の人材。性格は温厚ですなおでまっすぐであり誰に対しても敬意をもって接する。ポジショントークを行うことはあるが、情に厚く信頼を裏切ることを嫌う。経営者の片腕としても、事業責任者としても頼れる存在であり、プロジェクト成功率80%を誇る。パイオニアの中のパイオニア。マーケッターとしては故水口健次氏最後の弟子である。ビジネスにおいてもプライベートのおいても日本を代表し、世界屈指の人材であり続けるために日々チャレンジを行っている。